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山歩き

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三の橋、二本榎、西郷山

 思い立ち、準スポーツ車で「二本榎」を目指す
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天現寺交差点

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麻布三の橋


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回り道であるが三の橋で30日の待ち合わせポイントを確認。

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魚藍坂 急坂を一気に「乗っ越す」。
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旧本榎通りへの入口

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青い屋根は和洋折衷の民家

「二本榎通り」
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古い商家
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高輪警察署前の交差点 明隣堂という書店がありました。その前は生垣があった民家
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数年前の文章ですが…港区芝二本榎本町に生まれ、二十数年は住んでいました。現代では二本榎通りと呼ばれている高輪台地の尾根筋を通る「縄手道」ですが江戸時代以前からの旧道です。始めに道が造られてからは大きな拡幅はあったのでしょうが、江戸時代半ばからはそのままの道幅で生かされていると推測します。舗装されていなかったという幼い頃の記憶があります。
 町名の由来となった二本の榎はすぐ近くの上行寺の入口に二本並んでそびえていました。家は短い路地奥にあり裏手はその上行寺に接していました。江戸時代の図絵にも上行寺は記入されています。通りの向いには高輪消防署があり昭和初めの建築という火の見の望楼が望まれていました。毎日見ていた景観であり、意識はしたことがありませんでした。

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かつての高輪消防署

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 しかし最近久し振りに訪れレトロな建築物として再認識をしました。高輪消防署の本部は移転していましたが建物は残されていました。そして現役の消防署として維持され「高輪消防署二本榎出張所」と使用されていました。「高輪消防署二本榎出張所」をキーワードにインターネット検索をすると建築に造詣がある方のウェブサイトや東京散歩を趣味とする方のサイトに希少な望楼が残されている消防署ということで画像がアップされていました。 


 古井由吉という作家がいます。著作に『山に彷徨う心』(一九九六年発行、アリアドネ刊)と題されたエッセイと短編小説集があります。
 収録されている「山に行く心」は、《すでに見た感じ》や《登山に労働の典型が保たれている》《峠越え・谷の空間》をキーワードに山と人間を考察しているエッセイです。
「人間は時間そのものをじかに目で見ることができないものだから、時間をたえず──無意識のうちに──空間において眺めている」と述べ、古井が「すでに見た感じ」として表現している、東京という都会の子どもとして経験した、「坂の上での目前の空」「通りすがりの狭い路地奥」「人通りが途絶えた四辻」などをあげています。既視感という語を使わないのは、それで説明されてしまう一般的な記憶の「ニセ」の感覚とは区別したいと思います。


 古井が育ち生活した「町」は私と重なります。古井は一六歳年長なので同時代の「空間」は共有していませんが場所としては共有しているわけです。さらに古井の掌編ともエッセイともいえる作品集を読みましたが、中学の同窓であることが判り、さらに私の生活域であった土地を描写しています。(『東京物語考』 1990.3 岩波書店 同時代ライブラリー) 
 台地と多くの寺があった土地において私も古井が経験したような「すでに見た感じ」を子ども時代に何度も経験していました。それを感じたのは大きな屋敷の裏を抜け台地のエッジになり展望が一挙に開ける場所でした。そこまでの狭い視界から変化が急におきるので錯覚をひき起こしやすいのでしょうか。「すでに見た感じ」は異空間への入口でもあるのでしょうか。子どもとしての感覚でいえば独りで行くことが可能な領域を越える冒険だったのかもしれません。坂はある地点から急激な景観の変化が起きるので、そのような感覚を引き起こしやすいのかと思います。




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桂坂から東禅寺へ抜ける道 まだ陽は落ちていないのですが、この道は暗い
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 都市を描写する作家、川本三郎も、私の生活域の「町」に対して外から訪ねた者として「不思議」な空間体験のエッセイを残しています。
 その場所も古井や私が経験した同じ「町」の範囲です。川本の場合は訪問者であるという違いはありますが。
「高輪警察署の交差点を品川方面に降りる。大きな坂道になっている。……坂の途中を右に折れると実に不思議な一画がある。」「ここはもう住民たちがとくにいなくなって町だけが残っている〈遺跡〉ではないかという錯覚にとらわれた。」『私の東京街歩き』(九〇年、筑摩書房)。川本の感覚も「時間を空間において眺める」ことに変わりがありません。
 

 川本が散策し指摘した町は桂坂周辺であり二本榎出張所の交差点から下ります。途中で右へ入る細い路地は高野山別院と東禅寺の裏手に出ます。ちなみに左へ抜けると高輪台小学校の横を抜け泉岳寺にまわります。東禅寺の墓地内はクワガタムシを採取する穴場でした。高野山の墓所には湧水地がありました。また路地の際の民家には井戸があり夏場は蝉取りの合間に乾いた咽喉を潤しました。


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高輪の洋館
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木造の住居が解体、マンション建設のための工事
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教会
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再び高輪消防署

 こちらの画像は日没後で暗くなりました。
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 川本のはるか以前、「大正時代」にこの辺りを散歩した手記が残されています。

  略

 私が東京という都市、生まれ育った地域の歴史に関心が深まってきたのはこの十年ほどです。一つには山歩きを始めてこの列島に残されている多くの自然と直接に触れたことが逆にコンクリートに被われた東京の原初の景観を想像したいということにつながりました。

また『日本アナキズム運動人名事典』の編集と執筆過程で二十世紀前半の社会主義者たちの自伝や回想を参考文献として多く読んできました。そこにはつい七、八〇年前の東京の生活が描かれていました。渋谷ですら郊外であり川は清流であり清水が得られていた記述があります。

 都市に関してはさまざまな領域から論考が展開され出版物のジャンルでも根強い人気があると思います。地形、歴史、時代、建築、交通……。東京に縁がある作家たちは東京を個性的に表現します。吉田健一は『まろやかな日本』で「東京」というテーマのエッセイで記述しています。

「これまでずっと東京に東京らしさを与えてきたものは、主としてその単調な、くすんだ感じだった。たとえば低地帯の空気の質という地形上の条件がそれに何か関係があることは疑いない。とにかく白壁はすぐ灰色に変わる、木の緑は強調されず、赤煉瓦は褐色に、川の水の色調は青空の下で陰鬱をおび、店の看板は、けばけばしい色彩を保てないためにわずかのあいだしか目を惹きつけない。」「維新も戦争も地震も近代化も、過去百年間に東京に起こったことを全部ひっくるめても、日本の大部分の町がすでにきらびやかな都会風の伝統を背にしていた四百年前に、東京はこの国の半未開の一漁村だった、という事実を末梢するにはたりないようである」。


 詩人の田村隆一は「たかだか四百年の歴史しかない江戸=東京、それがすでに十八世紀から十九世紀にかけて人口百万(内、参勤交代者五十万)の世界第一の大都会になっていた都市なのだからじつに不思議な交響曲をひびかせていたのにちがいない」と『ぼくの東京』(八八年、徳間文庫)で語っています。田村は一九二三年生まれ。同書で、「祖父は向島小梅の両替商の長男、明治の御一新で追われ田舎町に流れてきたのだ」「ぼくが生れたのは、この〈江戸一〉(居酒屋)の奥、当時は北豊島郡、巣鴨村字平松という地名」と一家の「移住」に触れています。


 大正九年、祖父は親友から借りた一万円を資本にし、その石神井川の支流と雑木林におおわれた窪地の突端にその雑木林をきりひらき鳥料理屋を開業します。震災の復興ブームで続出した俄成金や壊滅した下町の岡場所を失った遊び人が殺到し店は繁昌し、同業者が下町から集り大塚花街ができあがったとも述べています。大塚三業組合(料理屋、待合、芸者屋)の創立者の一人となり、後に社長となります。「祖父の店〈鈴むら〉の周囲には二百年から三百年にもなる大ケヤキの並木があって、夏は緑陰をつくり、冬は新鮮な太陽をおくりこんでくれた。」「ぼくの生れたころの大塚は、じつに牧歌的な田舎町だった」と回想しています。


 千代田区の図書館職員の頃より区史、都史の編纂に関り長年にわたり江戸の成立を研究している鈴木理夫は著書『江戸の町は骨だらけ』(〇二年、桜桃書房)において次のように語っています。「一四五七年築城の道灌の江戸城は規模が小さい、兵力は千人以下と推定される、一五九〇年に家康は秀吉の命令で太田道灌が築城した江戸城に入る、小河川(しょうかせん)の谷間、局沢(つぼねざわ)に一六軒の寺院があった、家康が甲州に派遣していた軍団は府中に待機、江戸入城を果たした兵力は僅かに八千人。それだけの人数でも道灌の江戸は人馬で溢れる、飲料水の確保のため千鳥ヶ淵、九段下、牛ヶ淵とダムをつくる」。


 それまでを圧倒する軍事力の配置から半漁村、江戸の生活基盤の整備が必要となり緊急工事が始まるわけです。墓地の移転はあっても改装せずに「骨」はそのままにしたというのが最初期の事情です。「寺のウワモノだけを外の土地に移す《移転》させたことにする。」江戸の拡張は墓地の移転を常に伴います。
 その局沢(つぼねさわ)は日比谷入江に注いでいました。日比谷入江は現代の山手線をめどに位置を説明すると有楽町、東京の江戸城側で二重橋から「皇居」に沿った範囲になり整備された後の「新」江戸城の濠が残されていてかろうじて「入江」を想起する痕跡となっています。


 これ以上「江戸」の歴史に踏み込むと際限がないのですが鈴木は他の著書『江戸はこうして造られた』(二〇〇〇年、ちくま学芸文庫)で徳川支配以前の江戸は「江戸前島」一帯が鎌倉円覚寺の荘園として所領されていた、徳川幕府はその歴史を抹殺してきたという論考を展開しています。さらに遡れば九四〇年前後の「将門の乱」もまた興味深い歴史物語です。神田神社は将門を九百年以上祀っていたのですが明治の初めに維新政府の圧力もあり朝廷に叛乱を起こした将門ではまずいということで祀神の中心からはずしています。さらには七百年代、安房の漁師の移住……水上交通の視点、利根川がかつては東国を分けていたこと等々……


 徳川の江戸入りに戻りますが、四百年まえ、武士集団の人数だけでも一挙に数倍も増えたということです。初期江戸城の周辺にはどれほどの漁民が住んでいたのでしょうか。手にした鈴木の著作では住民の具体数には触れていません。道灌の江戸城に関しての史料が全く残っていないと鈴木は記述しているので「江戸前島」の漁師たちの記録もないのでしょう。史料の裏付けがないデータには触れないということでしょうか。他の書物では徳川が支配した時点で「江戸前島」辺りに百戸程度という記述があります。それが二十年後には十五万人に急増したとも書かれています。

 道灌以前の城は神楽坂を上がった市ヶ谷台地に築かれていたという新聞報道を十数年前に読んだことがあります。こちらは城といっても土塁による単純な防護壁と質素な館だけだったのではないかと思います。道灌の築いた城にしても土塁の防護壁だけで石垣は用いられていないということです。徳川家康が支配する頃の近代的な城というのは石垣を築いたものなので、徳川家康や家臣たちにとってシンプルな構造に見えたと鈴木は述べています。いずれにしろこの江戸時代だけでも非常に多くの一次資料、研究書、入門書が刊行されています。ビルとコンクリートの合間から江戸の町、地形を想像することの楽しみもあります。


 十年前、九五年に小木新造という歴史研究者が「江戸東京学」という課題を提起しています。「明治元年」という時代の切れ目の研究が疎かになるきらいがあるということで四百年の流れで連続して見る視点が必要ということを語っています。『江戸東京学への招待』(NHKブックス、九五年)。
 同書では明治維新での著しい変化は武家地の荒廃、人口の激減としています。「江戸の七割を占める武家屋敷の荒廃、寂れで山の手は昼間も女性の一人歩きは危険だといわれるほどであった」「武家屋敷跡地を開墾する桑茶畑三百万坪計画をたてたが実質百万坪に終わった。山の手一帯が開墾者に無償で貸し付けられ赤坂から渋谷に至る青山通りが見渡す限りの桑茶畑に変身した、このとき東京府から希望者に千坪十五円で売り出された青山の武家地跡があったが誰も買い手がなかったという話が伝えられている」
『家康はなぜ江戸を選んだか』岡野友彦(九九年、教育出版)



 「松井松平家の家老による『石川正西聞見集(いしかわしょうさいぶんけんしゅう)』(一六六〇年)という史料、この頃の江戸は遠山景政の居城でいかにも粗末、城下町なども茅葺きの家が百あるかないかの様子で、城も形ばかりで城らしくなく、あさましいありさま……」しかし、この記述は「荒れ果てた〈葦原〉である江戸」を自らの政権所在地として選んだ家康の卓見を強調する意図が加わっていると岡野は論じています。


  略


 国木田独歩の住まい
国木田独歩は明治二十九(一八八六年)年秋から翌年春まで渋谷村に小さな家を借り (渋谷公会堂とNHKにはさまれた坂の途中)この独歩を訪ねた田山花袋は回想を残し独歩の住まいを描写します。



《丘の上の家》田山花袋
「渋谷の通を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲っていて、向うに野川のうねうねと田圃の中を流れているのが見え、その此方(こちら)の下流には、水車がかかって頻りに動いているのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私たちは水車の傍の土橋を渡って、茶畑や大根畑に添って歩いた。……」
「路はだらだらと細くその丘の上へと登って行っていた。斜草地、目もさめるような紅葉、畠の黒い土にくっきりと鮮やかな菊の一叢二叢、青々とした菜畠…」
花袋「好い処ですね。君。」
独歩「好いでしょう。丘の上の家──実際われわれ詩を好む青年には持ってこいでしょう。山路君がさがしてくれたんですが、こうして一人で住んでいるのは、理想的ですよ。来る友達は皆な褒めますよ。」
「好い処だ……」
「武蔵野って言う気がするでしょう。月の明るい夜など何とも言われませんよ。」

画像は西郷山
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縁側の前には、葡萄棚があって、斜坂の紅葉や稺樹(わかぎ)を透して、渋谷方面の林だの丘だの水車だのが一目に眺められた。
……
「丘の上の後ろの方には、今と違って、武蔵野の面影を偲ぶに足るような林やら草薮やらが沢山にあった。私は国木田君とよく出かけた。林の中に埋れたようにしてある古池、丘から丘へとつづく路にきこえる荷車の響き、夕日の空に美しくあらわれて見える富士の雪、ガサガサと風になびく萱原薄原(かやはらすすきはら)、野中に一本さびしそうに立っている松、汽車の行く路の上にかかっている橋──そういうところを歩きながら、私たちはどんなに人生を論じ、文芸を論じ、恋を論じ、自然を語ったであろうか。……
…その頃から、国木田君は例の『独歩吟』の中にある詩をつくるようになった。「山林に自由存す」という詩も「遠山雪」という詩も「翁」も「去年の今日」も皆その丘の上の家で出来たのだ。
……紅葉、時雨、こがらし、落葉、朝霧、氷、そういうものが『武蔵野』の中に沢山書いてあるが、それは皆なこの丘の上の家での印象であった。
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「東京の発展」
大通も殆ど渾(すべ)て江戸時代の面影を失ってしまった。破壊と建設との縮図は、一時東京の市街に不思議な、不統一な光景を示したが、今ではそれも一段落ついたように、不統一のままに落付いてしまった。…

参考文献<田山花袋>
日比谷は元は練兵場で原の真中に大きな銀杏樹があって、それに秋は夕日がさし、夏は砂塵、冬は泥濘で、此方から向うに抜けるにすら容易ではなかった。ことに、今の有楽町から桜田門に通ずる濠に添った路は雨が降ると路がわるく車夫は車の歯の泥濘に埋れるのを滴したところである。そしてそれが尠くとも明治二十七、八年まで、そういう風であった。
 丸の内は、いやに陰気で、さびしい、荒涼とした、むしろ衰退した気分が満ちわたっていて、宮城も奥深く雲の中に閉ざされているように思われた。何という相違であろう。……今ではさびしさとか陰気とかいう分子は影も形も見せなくなってしまった。……
 外濠の電車の通るあたりも、全く一変した。溜池──その岸には、春はなず菜、根芹などが萌えて、都人士が摘草によく出かけて来たものだが、それが埋立てられて、今の賑やかな狭斜街になり、青山御所の向うには大きな東宮御所が建築された。この濠端の花の見事なことは、今は東京名所の一つに数えても好い位だ。弁慶橋の柳の緑、春雨の煙る朝などは、何とも言われない情趣に富んでいる。……
 概して、東京の外郭は、新しく開けたものだ。新開町だ。勤人や学生の住むところだ。そこには昔の古い空気は残っていない。江戸の空気は、文明に圧されて、市の真中に、むしろ底の方に、微かに残っているのを見るばかりである。
 こうして時は移って行く。あらゆる人物も、あらゆる事業も、あらゆる悲劇も、すべてその中へと一つ一つ永久に消えて行ってしまうのである。そして新しい時代と新しい人間とが、同じ地上を自分一人の生活のような顔をして歩いて行くのである。五十年後は? 百年後は? 
 
 


 参考文献<田村隆一>
『ぼくの東京』1988年1月、徳間文庫刊行。(元本は1980年12月、双葉社刊)
岡本綺堂の「半七捕物帳」を手がかりとして江戸、東京を歩き、現代都市となった東京を愉しむ<東京論>。三話めが≪「熊の死骸」高輪≫

 以下は同書から再引用。岡本は1845年、弘化二年の正月二十四日の江戸の大火を題材に物語を創作。午後二時に青山の武家屋敷から出火、麻布、芝の三田、二本榎、高輪まで燃えぬけ午後八時に鎮火。焼けた町数は百二十六ヵ町という。半七は高輪に住んでいる同僚を見舞いに行く。その火事現場に異様な獣が現れる。大きな月の輪熊。麻布の膏薬屋が看板代わりに飼っていたのが逃げ出したということ。

 原作はそれから事件が起る。高輪の海辺で薬問屋の娘が殺され熊の毛を握っていたという。半七は熊の死骸が高輪の山中に埋められたことを突き止める。

 田村隆一はこの創作を手がかりに高輪の海辺と「山」をタクシーに乗って探すという趣向。田村はホテルパシフイック辺りと見当をつけるが、これは違うのではないか、高野山東京別院か東禅寺の裏手辺りが相応しいと推測をする。添付の簡易地図も通り名を間違えて記載。(編集者の誤記ではあろうが)。

 田村隆一は取材行の後、「忘年会を浅草でやろうじゃないか」と呼びかける
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by yamanohon | 2008-09-22 10:09