山歩き

yamanohon.exblog.jp
ブログトップ

夏の超低山彷徨三ヶ所目一二八高地(館山・戦争遺跡)

e0140334_19462776.jpg

木更津沖の景観。(羽田空港先の川崎の人工島ジャンクションから海底の東京湾アクアトンネルに入り6分ほどで木更津人工島。そこからは海上の大橋を渡った)
e0140334_19464562.jpg

戦跡を回る前に安房文化遺産フォーラム愛沢さん、池田さんの講義を聴く。
e0140334_1947435.jpg

講義の画面(Microsoft PowerPoint presentation graphics program使用)
1624年建立の「四面石塔」の文字。時間の都合で訪問できず。
e0140334_19471759.jpg
e0140334_1947296.jpg
e0140334_19473849.jpg

「洲崎灯台がすぐそばに見える栄の浦に、同様な≪震洋≫基地建設をすすめ、ほぼ完成した」
フォーラムウェブサイトより
e0140334_19474864.jpg


フォーラム作成のパンフレットより。
「第一特攻戦隊第18突撃隊。波左間≪震洋≫特攻基地跡と洲崎「震洋」特攻基地跡
 第18突撃隊は、6月下旬、1人乗り≪震洋≫58隻を主力とする、第59震洋隊の配備命令を出した。45年7月に入って、第59震洋隊には真鍋康夫中尉を部隊長とする、志願した176名の若者たちの配属を決定した。
 館山市波左間の特攻基地の建設では、45年3月下旬から200名から300名の兵士たちが送り込まれ、≪震洋≫の格納壕をはじめ居住・燃料・兵器・食料などの素掘りの地下壕が突貫工事で掘られることになった。その施設は航空機から発見しづらいように、小さな漁村である波左間の民家にまぎれて配置された。
 こうして波左間の海岸から約200メートルとやや離れた山すそに、≪震洋≫格納壕7本と燃料や食料などの地下壕が掘られ、≪震洋≫を海岸まで移動させるためのコンクリート道路が敷かれた。さらに海岸にはコンクリート製の滑り台や、係留施設などが建設されていった」

e0140334_19475644.jpg



e0140334_19481630.jpg

 海岸の≪震洋≫滑り台に到る道は当時に整えられたまま変更されていない。
e0140334_19482526.jpg
e0140334_19483410.jpg
e0140334_19485069.jpg
e0140334_1949110.jpg
e0140334_19491190.jpg

≪震洋≫滑り台は満ち潮のため全容を現していない。

e0140334_19492535.jpg

「かにた婦人の村」敷地地下
フォーラムパンフより「一二八高地 抵抗拠点。1944(昭和19)年7月20日に「本土沿岸築城実施要綱」が発令されると、館山湾からの敵上陸を阻止することを目的に、沿岸の中でおもな抵抗拠点には骨幹的な陣地や塹壕を建設したり、戦略的な拠点には、砲台の建設をした。
そのなかで抵抗拠点のひとつとして建設された施設が、想定された本土決戦の作戦命令では一二八高地」と記載されている場所にある地下壕である。現在、館山市大賀の小高い山の中腹にある地下壕の内部には、コンクリート製の額に「戦闘指揮所」「作戦室」の文字が浮き彫りにされている」



e0140334_19494197.jpg
e0140334_1950638.jpg
e0140334_19502688.jpg
e0140334_19504824.jpg

〔従軍慰安婦の碑〕
「社会福祉法人ペデスダ奉仕女母の家」が運営する「 かにた婦人の村」敷地(蟹田川上流)

深津文雄理事長へのインタヴューを掲載したサイト・「NHKETV≪こころの時代≫」
e0140334_19512115.jpg

e0140334_19514272.jpg

赤山地下壕跡入り口
フォーラムパンフより「海上自衛隊館山基地(館空)のすぐ南側に標高60メートルの「赤山」と呼ばれる小高い山がある。凝灰岩質砂岩などからできた岩山の中には、総延長2キロメートル近くの地下壕(要塞)跡と、巨大な燃料タンク基地跡などが残っている。基地の建設のときに十分な地質調査をし、その後海軍の専門工作部隊によって建設された地下壕と思われる。大部分は素掘りのままであり、今でもツルハシの跡が鮮やかに残っている」
[PR]
# by yamanohon | 2008-08-24 19:56